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阪神.淡路大震災直後の二ノ宮金次郎の陶像作り

CIMG1907.JPG徳島県板野郡北島町北島南小学校の二ノ宮金次郎の陶像制作の想いで! 

 この二宮尊徳(金次郎)の陶彫像には、忘れることの出来ない思い出があります。
平成7年1月の阪神淡路大地震直後の1月23日、突然の徳島県板野郡北島南小学校の先生からの電話で始まりました。  
 地震で校庭の二宮尊徳像が壊れてしまったので、6年生の卒業記念品を急遽変更し、像の再建をしたいので3月の卒業式までになんとか作ることが出来ないだろうかとの依頼でした。  
2ヶ月足らずの期間しかないのに作ることが出来るのか、祈る思いの制作でしたが、卒業式3日前に無事窯出しすることが出来ました。
翌日の津名港に着いたときの状況は岸壁のコンクリートは浮き上がり、道には亀裂があり、ほとんど車の走っていない淡路島の道路を通り、北島南小学校に着いたときの気持ちは、喜びと責任を果たした満足感でいっぱいでした。 先生や子供たちが喜んでくれたのはもちろんです。  
 後日、生徒達から感動する手紙が届きました。今も大切に保管していますので一部紹介します。   [このたびは、地震でこわれた二宮尊徳像を造って頂いて本当にありがとうございました。新しくできた二宮尊徳の像をみると、じょうぶで、しっかりしているようで、手触りがすべすべしていました。大変苦労されて造ったのが、目に浮き上がってくるようです。 私達が昔の二宮尊徳さんのように、仕事を手伝いながら勉強することはありません。しかしこの像を見ているとそのときの頑張りをこのような粘土の焼き物に表現されたように感じます。
私達は卒業しますが、いつまでも私達を勇気づけてくれる像として、これからも私達の手で大切にしていきたいと思います。
このように二宮尊徳などの像を造ってくださるところは、あまりなく大変さがしたと聞きました。本当にありがとうございました。]        6年3組 M女子  原文のまま               
 40年間の陶器作りに携わってきて、地震の恐ろしさと共に努力すれば不可能も可能にすることが出来るのかなと、生涯忘れることのない貴重な体験を味わったものでした。

二宮金次郎の少年時代のお話し

  •  今でも多くの小学校に銅像のある二宮金次郎は、貧しい農家に生まれながらも学問に励み、出世して藩の財政を立て直したり、田畑の開墾を指導して、六百余りの村を復興させた人物です。
  •  これは、この二宮金次郎の少年時代のお話しです。
  •  相模国(さがみのくに→神奈川県)に生まれた金次郎は、とても貧しい農家の長男でした。
  • とても貧しかったので、その日に食べる物もありません。
  • そこで仕方なく、末の弟を親戚の家に出す事になったのです。
  • その夜、お母さんは息子の金次郎に泣きつきました。
  • 「金次郎。わたしはやっぱり嫌だよ、あの子を親戚にやるなんて」
  • それを聞いた金次郎は、お母さんに言いました。
  • 「わかりました。明日からは、わたしが人の二倍働きます。だから弟は、すぐに帰してもらいましょうね」
  • 「ああ、金次郎。すまないねえ」
  • 金次郎は弟が帰ってくると、前よりもっと働かなければなりませんでした。
  • 朝早くからたきぎを拾って町で売り、それが終わると夕方まで畑をたがやして、そして夜は遅くまでわらじをつくりました。
  •  お母さんは体が弱くて、あまり働けないので、十五才の金次郎が一人で家族をやしなうのです。
  • それは大変な苦労でしたが、金次郎は文句ひとついいません。
  • それどころか、
  • 「移動する時間、何もしないのはもったいないな。時間は、上手につかわなくちゃ」
  • と、たきぎを町へ売りに行く時は、好きな本を大声で読みながら歩いたのです。
  • この当時、農家の人間が勉強するのは珍しい事でした。
  • ですから、この金次郎のおかしな行動は、すぐに村中に広まりました。
  • 「あの子、勉強しながら歩いているよ」
  • 「ほんと、全く変わった子だね」
  • そしてそれを知った親戚のおじさんは、金次郎をしかりつけました。
  • 「馬鹿者! 農家の人間に、学問などいらんのだ! だいたい、本を買う金があったら、家族に食べ物でも買ってやれ!」
  •  しかし金次郎は、おじさんにしかられても、こっそり勉強を続けました。
  •  こうして勉強を続けた金次郎は、やがてどんどん出世をして、村一番のお金持ちになったのです。
  •                                         おしまい